審美眼と千利休
美を審(つまびらかに)する眼、美を見つける眼力
それを思う時、最初にうかぶのは千利休。
数々の逸話が彼には残されている。
たとえば路地に咲く万面の椿の中から一輪だけ床の間に生け、あとはすべて刈り取ってしまった話。。
水盤に枝桜をいけるよう試されたとき花弁だけを水盤に捲き入れた話などは有名であるが事実かどうか私はわからない。
しかし彼の審美眼が確かであった証拠として
楽茶碗と与次郎の釜を挙げたい。
{黒楽茶碗 銘 面影 長次郎作}
二者に共通するのは
「たっぷり」とした中に厳しさがある美しさだ。
玄(くろ)の美
黒楽に濃茶を満たした時の緑の輝き、
荒れた釜肌が素晴らしい阿弥陀堂釜。
唐物中心であった茶道の世界で
それまで存在しなかった新物を珍重し、
非難を受けながらも己の美を確信し、
貫いた姿勢は前衛芸術を見る眼と同じだ。
しかしこのような審美眼をだれでもが得られるわけではない。
備わった資質が大切であるが磨けば少しは伸長すると思いたい。
古いものに拘泥する自分の姿と重ね合わせると忸怩たる思いがする。
「いいもの」と「わるいもの」を見極める能力のある人を
「目利き」と呼び、
「なんでもないもの」の中に美なるものを見出すか創り出せる人を「目あき」という。
さしずめ千利休は近世の「目あき」である。
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